丸井零 哲学・思想について

哲学や思想について考えたことを書きます。

「すべての差別に反対する」ための、必然的な叙述 3 正義

社会から取り残された人たち、不遇な人たち
規範から外れるということは、社会からとりのこされるということ

 誰の味方をするべきだろうか。規範から外れた人間というものは、言いかえれば社会から取り残された人間である。社会から取り残されているから規範から外れたことをしなければならないし、そして規範から外れてしまうことによってさらに社会から取り残されてしまう。そういう悪循環の渦中にいる人が確かに存在している。そのことに我々の意識は気づくのである。

不遇な者、当然な者との区別

 しかしこの意識は正義の意識である。もはや真面目の意識を乗り越えてはいるが、まだ登城したばかりの正義の意識である。若い正義の意識はこう思うであろう。「社会から取り残された人々は救われなければならない。しかしそうした人々の中にも、不遇にも社会から取り残されてしまった人と、当然の結果として社会から取り残されてしまった人がいるはずである」と。不遇な人とは、ただ誠実に人生を過ごしていただけなのにそれでも社会からとりのこされてしまった人のことを指す。当然な人とは、生き方や言動、思考に問題があり、それによって当然の結果として社会から取り残されてしまった人のことを指す。
 我々(著者と読者)は、このような一面的な区別に違和感を持つことができるかもしれない。しかし先ほども言ったように、この正義の意識は脱皮をしてからの若い存在でしかなく、そこまでの見識は持ち得ていない。同時に、社会から取り残されてしまった人、という意識から見た対象についても、登場したばかりで吟味はされていない。このような区別が正しいことなのか、それすらも反省されていないのが現状である。
 正義の意識は、当然な者を許すことができない。不遇な者には喜んで、むしろ率先して手を貸そうとするが、当然な者には目もくれない。救われるべきは不遇な者だけであり、当然な者はその対象ではない。正義の意識がこれを助けるためには当然な者が不遇な者へと成長しなければならない。例えば生活保護のお金を使ってパチンコを打っていることであったり、酒やギャンブルにはまって借金をしてそのまま人の助けを借りないと生活できなくなってしまったような人間のことである。そうした人間には、正義の意識は厳しい。改心を要求するであろう。

不遇な意識は次第に当然な意識へとゆっくり移行していく

 しかし実際は、正義の意識が要求するようには事は運ばない。不遇な者たちは、社会から取り残された生活を続けていく中で、その環境に少しずつ順応していくだろう。「貧ずれば鈍ず」である。この言葉は筆者は好きではないが、少なくとも正義の意識に取ってみれば、不遇な者たちは少しずつ品性が劣悪に変化していっていることがわかるだろう。社会から取り残された者を、不遇な者と当然な者とに区別した正義の意識は、この区別の最初の困難に気づくことになる。つまり時間の経過である。時間の経過によって、不遇な者立ちは次第に当然な者立ちへと移行していく。それを正義の意識は黙って耐えることができるだろうか。正義の意識が引いた境界線を越えた瞬間に、不遇な者としての資格を剥奪し、当然な者のリストへと放り込んでしまうだろう。かくして、不遇な者だけの味方を仕様とした正義の意識の考えはここで打ち砕かれることになる。

不遇な人たちから当然な人たちへ
時間経過の概念を導入する

 正義の意識は不遇な者が当然な者に必然的に移行してしまう姿を見た。不遇な者を選んで味方をする、という考え方ではうまくいかないことがわかった。そこでさらに、我々の正義の意識は当然な者のほうにまなざしを向けることにする。当然な者は、確かに現時点では当然な者なのかもしれない。助けるに値しないような言動をしてしまっているのかもしれない。しかし、上記の議論と同じようにここでも時間経過の概念を導入してみたらどうなるであろうか。

区別の消失

 既に当然な者であるはずの者たちは、かつては不遇な者であったことが明らかになるだろう。であれば、不遇な者であった者立ちが時間経過によって必然的に、換言すれば必然的に当然な者へと移行してきたのだとしたら、果たして彼ら彼女らは当然な者なのだろうか。かつては不遇な者であったという点において、明らかに不遇な者ではないだろうか。
 このようにして、正義の意識にもう一つの試みも失敗に終わってしまう。不遇な者は当然な者へと移行し、当然な者もまた不遇な者へと移行する。正義の意識は、もはやこの区別に意味はないことに気づくことになる。

不遇と当然を越えた新たな統一概念、弱者
区別の解体・再構築を目指す

 不遇な者と当然な者との区別をついに解体したものの、もう一度同じ社会から取り残された者というところに後戻りするわけにはいかない。
 そもそも不遇であろうが当然であろうが、社会から取り残されていること──つまり不利な立場に置かれている人はすべて弱者なのであり、そこを強者の側が強者の考えた理論によって区別して片方を排除すべきでない。

弱者と優しさの地平へ

 ここで新しく登場する概念が弱者である。そして、弱者をまなざう意識は、正義の意識から優しさの意識へと段階を進めていく。ここまで、意識の方は真面目な意識、正義の意識と進んできた。そしてそれぞれの意識の対象は、目の前の人(規範に従う者-従わない者)、社会に取り残された者(不遇な者-当然な者)と進んできた。続いて、意識は優しい意識へと、その対象は弱者となる。優しい意識は、弱者への連帯を目指すことになる。