丸井零 哲学・思想について

哲学や思想について考えたことを書きます。

「すべての差別に反対する」ための、必然的な叙述 1 序文

序:「すべての差別に反対する」とはどういうことか

 我々は差別に反対せねばならない。いかなる差別に反対するのか。答えは単純で、すべての差別に反対するのである。ではいかにしてすべての差別に反対するのだろうか。このように考えていくとき、私は壁にぶつかってしまう。なぜ差別があるのか。区別とはどう違っているのか。差別されるとはどういうことか。差別をするとはどういうことか。差別に対して反対するためには、こうした自然に湧き上がる様々な疑問について考えていく必要がある。
 すべての差別に反対する。それが結論である。それ以上何を悩むことがあるのか、と首をかしげる読者の様子を想像できる。しかしすべての差別に反対するというだけでは何も語っていないに等しく、我々の行動の実践的(倫理的)指針にはなり得ない。すべての生物を研究すると宣言するだけでは生物学にはなり得ないのと同じである。生物とは何か。何が生物なのか。生物を生物たらしめる要素は何か。これは生物か、あれは生物か……そうやって右往左往して、最終的にすべての生物を研究する学問を確立したとき、初めてそれは生物学たり得るのである。
 すべての生物を研究することが生物学にとって目的であり終着地であるのと同じように、すべての差別に反対することは目的であり終着地である。我々はここへ向かって歩みをすすめることになる。目的は同時に、出発地でもある。我々はすべての差別に反対することをここに宣言した。すべての差別に反対するという理念が出発地となり、すべての差別に反対するという実践が終着地となる円環の中を我々は旅することになるだろう。その過程において、様々な課題や問題に悩まされ、それらを解消していかなければならない。
 現在我々は差別について様々な知識や考えを持っているが、ここではそれらを一旦放棄することにする。差別についてのすべての前提知識を失った丸裸の意識が、実践的な概念を取得していく過程を観察することが、ここで行いたい考察である。この意識はすごろくの駒のようなものである。我々はすごろくの駒としての意識を、客観的に観察し、批判し、あるときは道しるべを示してやる必要がある。
 なぜそのようなまどろっこしい方法をとる必要があるのだろうか。直線的に反差別の理論を説明すれば事足りるのではないだろうか。だがそうではない、と私は主張する。反差別の思想は、差別者の中から必然的な過程で湧き上がるものでなければならない。レーニン共産主義思想は「外部注入論」であると批判された。レーニンはインテリが労働者を啓蒙する形で共産主義思想・革命思想を植え付けていくことを主張しており、それに対する批判としてこの言葉が生まれている。結局、レーニンが生んだソ連では権力者(党員・学者)と労働者との溝が埋まることはなかった。私は反差別思想の外部注入論には疑問を感じる。外から与えられた思想で、ある差別者をいくら啓蒙したところで、その人はそれを自分の中から必然的に生み出したわけではないから、また別の思想にすぐ啓蒙されてしまうだろう。ある差別的な意識が様々な経験を経ながら次第に反差別思想を獲得していくその過程を我々は辛抱強く観察し続ける努力をする必要がある。
 初めに現れてくる意識は差別について何も知らない。自分が生きている社会に差別というものが存在していることも知らないし、ある場面で自分が差別をしていることも知らなければ、また別の場面では自分が差別を受けていることすら知らない。そんな意識が、一体どのようにして差別に反対するようになるのだろうか。しかし現実に、差別者が差別に反対するようになる事例はいくつもある。ここではその過程を、一例としてではなく、あくまで必然的な過程として叙述していきたい。