丸井零 哲学・思想について

哲学や思想について考えたことを書きます。

「すべての差別に反対する」ための、必然的な叙述 2 真面目さ

真面目な意識の経験

真面目であり、他者にも真面目を求める意識
最も単純で無知な意識は、差別を知らない

 我々はもっとも単純な意識から始めなければならない。この意識は世界をただそのまま、そうある通りに見ている。あらゆる現象に対して、正当であるという判断を下す。世の中に差別が存在していることを知らない。さて、この意識は差別が存在することを知らないから、この世界で不当におとしめられている人はいないと考える。ここでは“不当に”という部分が重要であり、正当な理由においておとしめられているものの存在は否定しない。何かその人に悪いところがある(あった)からおとしめられているのだし、そもそもそれはおとしめられているといった言葉で表現することすら間違っていると、我々の意識は主張するであろう。「差別ではなく区別である」とはそのことを言っているのである。この意識はただ真面目に生きているだけなのである。そして、自分が真面目に生きているように、他の人間も真面目に生きれば、世界は良くなるのだと心の底から純粋に信じている。
 この意識が世界を見ると、きっと驚くことだろう。世界には不真面目があふれている。この意識を日本人であると仮定してみよう。時間を守らない。ゴミをゴミ箱に捨てない。犬を食べる。夜中に騒ぐ。障害者に席を譲ったのにお礼を言わない。日本の婚姻制度に従わない。そうした様々な不真面目さに何度も遭遇し、そのたびにこの我々の幼い日本人は眉をひそめるのだ。そして大きな声でこう叫ぶだろう。「郷に入っては郷に従え!」と。

無知な意識は初めて差別を受ける

 ではこの日本人は次に海外へと飛び出していく。持ち前の真面目さを武器に、世界で活躍しようと意気込んでいるようだ。しかし我々の日本人は壁にぶつかってしまうだろう。韓国に行けば、電車の中でお茶を飲んでいたらにらまれてしまう。中東で豚を注文して断られてしまう。アメリカで物静かにしていたら意見も意欲もない人物だと非難されてしまう。日本で振り回していた自分の武器は、いつの間にか錆びて使い物にならなくなっていた。それぞれの国で、それぞれの国の真面目さという武器で何度も打ちのめされてしまったのだ。ここで我々の意識は、あることに気づく。真面目さという武器で殴られていた人たちはこういう境遇だったのかと。自分は今それを経験しているのだと。
 真面目さとは何であったか。それはその社会の通俗的な規範に従っているということである。通俗的というのは、空気やこれまでの伝統によって無批判に信じられているものという意味である。通俗的な規範に従うとは、その価値観を内面化して自らそれを実践し、それを他人にも強いるということである。それが真面目であるということである。果たして真面目であることはこの意識にとって良いことなのだろうか。あるいは、社会にとってよいことなのだろうか。この意識は、真面目という自らの態度に対して疑問を感じるようになる。

あらゆる規範に寛容になる意識
真面目さの放棄

 この意識は真面目さへの信仰を放棄する。通俗的規範を盲信することをやめ、他者に強要することも止めるようになる。しかし、この意識にはよりどころがない。通俗的規範を捨てた先にある縋るべきものを持たない、孤独な存在となってしまう。意識はすぐさま通俗的規範へと戻ろうとする。多くの意識はここで通俗的規範へと敗走してしまうだろう。しかし我々が見ているこの意識はすでに通俗的規範を否定したことを覚えている。たとえ逃げ戻ったところでまたそこから追い出されてしまうことを知っている。だから戻ることはせず、その先へと進もうとする。
 自らの通俗的規範を放棄した先には、外来の様々な無数の規範が待ち受けている。これら規範の洪水の中へと歩を進めていくことになる。無数の規範に囲まれた状態とはつまり、無法地帯と言うことである。初め、意識は自由の喜びを感じるだろう。しかしその喜びはすぐに打ち砕かれることになる。無法地帯では誰も自分を守ってくれることはないし、みんながそれをすると社会が困るからこそ禁止されている行為というものが山のようにあるのだ。それを規制していたものこそが通俗的規範であった。しかし通俗的規範では、人を管理することはできても救うことはできないし、苦しむ人を増やす結果にも繋がってしまうということを既にこの意識は知っている。

無法地帯からの脱却

 通俗的規範は確かに不幸を呼んでしまうかもしれない。しかし、通俗的でない、その場に適した規範であればどうか。古く、死んでしまった価値観によって作られた通俗的規範であるからこそ人を苦しめてしまうのであり、新しく、生きた価値観によって作られた規範であれば、無法地帯から脱却しながらも後戻りはせずにいられるのではないだろうか。そのように意識は考えを巡らせ始める。
 より柔軟で、より包括的な規範さえ実現することができれば、抑圧的な社会の風土を平穏に一掃することができるのではないだろうか。我々の意識は、静的でない、動的な規範を志向し、新しい段階へと考察を進めていく。

動的規範を志す意識
誰のための規範なのか

 常に変動する規範、動的規範によって社会を変革すべく動き出した意識は、やはりまた壁にぶつかってしまう。いくら動的といえども、ある場所、ある時間、ある場面においてはやはりそれは静的な規範なのであり、規範なのであれば誰のための規範であるのかが決まっていなければならないことに気づく。
 規範は正しく作られ、正しく運用されなければならない。しかるべき行為が推奨され、しかるべき行為が規制されなければ正しい規範とは言えないだろう。そして正しさには基準がなければならない。正しい軸に基づいて、正しい規範を正しく運用することを、我々の意識は志す。

真面目な意識から正義の意識への移行

 誰のための規範であるのか。どのような立場の人のための規範であるのか。このことを意識は考えるが、これは換言すれば誰の味方をするのかという話でもある。そして誰の味方をするのかという問題は、正義の問題である。
 我々の意識は、はじめ差別というものを知らなかった。しかし、真面目さ、通俗的規範によって差別されている人々がいることを、自分の経験の中で自覚した。そして真面目さを見直して、規範を解体して再構築していく過程の中で、新しい段階へと移行していく。
 真面目な意識から正義の意識へ。一体誰の味方をするべきなのか。誰に寄り添った規範を形作っていくべきなのか。それがこの意識にとって重要な問題であり、差別問題としての関心事となっていくのである。